「imaginary happy」はハッピーエンドばかりのショートストーリー集。読んでほっこりなれるブログです。

鍵の落とし物

仕事帰りの駅のホームで、鍵の落とし主と勘違いされて声をかけられました。なんていい人だろうと感動したので、ネタにさせていただきました。

人生いろいろ、落とし主もいろいろ。

仕事帰りの駅のホームで、僕は鍵を拾った。
いつもなら拾わないのに。

今日に限って鍵を拾ってしまった理由は簡単で、落とし主がそこにいたからだ。正確に言うと、「落とし主っぽい人」だったんだけど。

落とし主だと思って声をかけた女性は、僕を怪しげな宗教勧誘か何かと勘違いしたようで、声をかけた瞬間怯えた顔をして僕を見た。

「鍵…チガ~イますか?」

女性に声をかけるなんて、滅多にないことだから変な発音になる。まるでカタコトの日本語を話す外国人みたいになってしまった。

僕の手の鍵を見て、女性の警戒感が薄れたのが分かった。

「いえ、違います。」

ぺこりとお辞儀されたので、僕もぺこりとお辞儀を返した。これは予想外だ。まさか、この女性が落とし主じゃないなんて。

僕は恥ずかしくて走ってその場を離れた。いつも乗る乗車位置からどんどん離れていく。降車駅に着いた時、これだとずいぶん階段から遠くなってしまう。しかし、この鍵はどうしたものか。

(そし~て、僕は途方にくれる♪)

なにかあるとすぐに母がよく歌う曲だ。サビの部分しか歌わないから曲全体は分からない。

結局鍵を持ったままの僕は、自宅最寄り駅で降りた後、近くのスーパーに弁当を買いに寄り道をした。

あ。

そこには、さっき鍵の落とし主と間違えてしまった女性がいた。この人も同じ駅だったんだ。驚くことに、ごく自然に彼女は僕に話しかけてきた。僕なら絶対無理だ。仕事は何をしている人だろう?

「あの後、鍵はどうしたんですか?」

「駅員さんにも渡しそびれて、そのまま持ってきてしまいました。」

「そうなんですか。」

彼女は鍵を持ってきてしまった僕をどう思ったんだろうか。きっと酷い人だと、偽善者だと思っているに違いない。

「落とし主は、家に入れずにきっと困ってますよね。僕、悪いことしてしまいました。」

僕はつい言い訳めいたことを言ってしまう。

「そうでしょうか?」彼女は平然とそう言った。

「家族と一緒に住んでいれば、誰かが開けてくれるんじゃないかな。」

そして、彼女はスマホのニュースを見せてくれた。

「日本の単身世帯は7人に一人ですって。鍵の落としても、大多数は家に入れずに困ったりしないですよ。」

確かにそうだ。自分が一人暮らしだから、鍵の落とし主も一人暮らしだと考えていたけど。世の中のほとんどの人は誰かと同居しているんだ。それなら、鍵を失くしても誰かが開けてくれる。

この女性は、研究職や教師なのかな?

「それに、一人暮らしの方でも、万が一に備えてスペアキーを分からない場所に隠しておいている人多いと思いますよ。わたしもそうです。」

「え?そういうのやってるんですか?僕、何もしてないな…。」

すると、女性はちょっと苦笑いしながら「実はわたし、鍵を落として困ったことがあるんです。それから郵便受けにスペアキーを置くようにしました。」

それを聞いて、また少し複雑な気分になる。

「もしかすると、鍵は落としたんじゃなくて、その場に捨てたのかもしれませんよ。同棲中のカップルが喧嘩して、相手の家の鍵を放り投げたとか。さすがにそれは確率低いでしょうけど。」

そう言って彼女は笑った。僕は女性の笑顔に好感を持った。

確かに彼女の言う通りだ。僕が鍵のことを考えて、あれこれと罪悪感を持つことは何の根拠もないことだ。

「ありがとうございます。ちょっと気が楽になりました。」

「何だかペラペラとすいません。鍵は明日、駅に届けたらいかがですか?きっと、もっと気が楽になりますよ。」

「そうですね。そうします。あの、お名前お伺いしてよろしいでしょうか。僕は内山と言います。」

「豊田です。」

「豊田さん、ありがとうございました。」

「いえ、じゃ。」

彼女は会釈してお弁当選びに戻っていった。僕に勇気があれば、ここで食事に誘うのに。そんなことができるはずがない。自分から名前を聞いただけでも、自分で自分を褒めたいぐらいだ。

「豊田さん…か。」

物の考え方って色々あるんだな。いつかまた彼女と会えるだろうか。また彼女と会えたら、その時は今日のお礼を言って食事に誘ってみようか。

僕はいつになく前向きな気持ちになっていた。

参考資料

ストーリーの中でご紹介した単身世帯の統計に関する記事です。

主人公の母親の鼻歌です。「そして僕は、途方に暮れる/大沢誉志幸」